arayattoの雑記

日々思うことを書いています。

こうでないとあかんで!と他人に同調を強要する大人にはなりたくない。 僕はそれが出来ているのだろうか?

こうでないとあかんで!と他人に同調を強要する大人にはなりたくない。

なれてるだろうか?

同調意識の高い日本に住んでいると、知らないうちにそうなっている気もする。

良い面もあるこの同調意識だけど、強要はダメだと思うのです。

だから自分からは、他人に自分の意見を強要しないように努めているつもりです。

 

最近のマスク論議なんて、他人に自分の考えを強要する、最たるものじゃないのかな?

「どちらでも良い」とは言わないし言えないけれど、つまりこれに対しても持論はあるわけですが、言わないようにしているのです。

 

Twitterなんかの匿名SNSだと平気で持論を展開して、また同調意見がリツイートされて、反対の意見を攻撃し始める。

反対された側はその側で同調意識で集まって持論を展開して、その反対意見を反対し始める。

 

なんなんだろう。

 

マスク着用肯定派は「一定の効果があるし、まだコロナが解決したわけでも無く、再流行を防ぐにはまだまだ着用が推奨される」と言います。

ところが否定派は「マスクなどでウイルスの侵入・排出を防げるわけはない」「顔が見えないことでコミュニケーション手段の阻害があって、特に子供の発達に有害」と言います。

 

実は接点がないから、お互いに持論展開しても攻撃を止めることができない?

考えてみて気がついたのですが、接点がないんですね。

それで、わざとそう書いています。

 

例えばマスクの効果について考えれば、いくら高性能マスクであっても実はウイルスの侵入を完全には防げないことは確かなことで、それだけ取り上げたらば、別にしなくても良いんじゃないか?となる。

マスクをしたままの生活で、コミュニケーション手段の一つ、表情を読み取ることを阻害しているから、もう良い加減マスクをしなくても良い生活をすすめよう。と否定派は言う。

 

一方することの意味はそれだけではないわけで、少なくとも飛沫感染を防ぐことはできると事実上考えているわけだし、場所によってはマスク着用を推奨することもある。

そんなにより再感染拡大を防ぐことの方が社会にとって大事だ、と肯定派は言う。

 

だからこそ自分の意見は持ちつつ、他人にそれを押し付けお互いを尊重するべきだと思うのです。

接点がないということは、それだけ考え方に多面的な面が存在することを意味しています。

だからこそ、持論を強要するのでは無く「そんな考え方もあるよね」と一旦受け入れて、それから自分の考えで判断すれば良い。

そんなことを思いながら、SNSの情報やツイートを見ていきたいと思うのです。