天気予報などの情報に振り回されたくないし、盲信的になりたくない、そんな想い。
今日は暖かかったのでしょうか。
よくわからなかった。
外に出なかったとかではないのです。
太陽の光を浴びた時には確かに暖かかった。
でもそれだけだった気がします。
何が言いたいかというと、天気予報の言葉にだけ従っていたら、何だか体感としてハズレる気がするのです。
朝から天気予報を見ていて、「今日は季節外れの暖かさ」なんて言っていて、これは昼間の外出はパーカーいらずだろうかと思っていたけれど、そんなことはなかった。
気温は確かに上がっていたんだろうけれど、寒かった?
家にいても寒いので、そんなに気温が上がった気もしない。
それで図書館に出かけて、読書をする。
そんなことで、元々テレビをしっかり見る方ではないけれどそれなりに見ていて得た情報に盲信的に従ったとしたら、多分何も考えずに長袖シャツで出かけたんじゃないか。
でも実際には体感で、パーカーを着込んで出かけた、それで正解だった。
学生時代に社会学を学び、情報に従う人間の心理や行動を考えていた。
当時は本当は産業社会学専攻の分野だったのだろうけれど、社会学専攻の学生でありながらマスコミュニケーション社会学専攻の教授について考えていたのでした。
今だったら当たり前に分野を横断して学ぶのだろうけれど、制度上そうなっていなかったのに自分の中では横断的に考えていた気がする。
そんな自分だったからこそ、いまだに天気予報情報に対しても、盲信的にならない感じです。
ステレオタイプに情報に従っていたら、着るものにさえ自分で勝手に考えなくなる(おしゃれをすることは別として、でもそれでさえ、天気予報で大まかにアウターを決めるわけでしょう)んじゃないか。
昨日のブログではないけれど、小さなことにやたらとこだわる。
だからこんな、どうでもいいことにこだわって考えたりするのでしょうか。
ほんとどーでもいい。
そうは思います。
でもやっぱり思うのは、情報に振り回されたくないし、情報に盲信的になりたくない。