お腹が空いてもイラついてないで感謝しよっ。
お腹が空いたのだけれど、月末でお金がないので食べられない。
もちろんいい歳をしたおっさんなので、本当にお金がない状態ではなく、ただ財布の中身が心許ないだけですが。
ただの使いすぎなだけです。
そんな時には、ロクなことは思わないもんだけれど、きょうは少しはまともなことを思ったのでした。
ただし当たり前でしょうもないレベルですが、でも大事なことを思いました。
食べたくても食べられない人が世界にはたくさんいるんだからね。
世界には紛争が頻発していて、食べることさえままならない人がたくさんいる、はずだ。
某CMによると8億人が食べ物を得るために並んでいるんだそうで。
紛争だけでなく、飢餓だったり、経済的貧困だったりするとは思いますが、確かに存在すると思います。
日常の平凡な日々にも感謝ですね。
だからこんな一時的にお腹が空いたって、贅沢な思いだから、自分の行いに反省し、日々の当たり前に感謝するべきなんだ。
今日は短いけれど、大事なことを改めて思いましたので、書いてみました。
8両編成の普通列車が走る私鉄って、東京と大阪ぐらいだったんだろうか?
関西は鉄道も強いんです。
関西は5大私鉄(阪急・阪神・南海・近鉄・京阪)を中心に、私鉄網が発達しているんです。
大阪在住時では、阪急電車が8両編成で普通列車を走らせていたのに馴染んでいました。
名古屋はそんな感じがしない?
だから、名古屋でも、8とは言わないまでも6両編成くらいで走っているもんだと思ったのです。
しかし来てみたら、JRこそ中央線で8両だけれど、東海道線で4両(時間帯によっては増結もされるようですが)、大阪で考えたら普通列車は7両だったし、短い。
名鉄では、2両編成で走っていたりする。
名古屋駅でですもんね。
近鉄で3両でしたっけ?
名古屋市って大都会なんだけれど、鉄道に関しては短い編成で走っているんですね。
路線延長では日本で屈指の規模ではありますけれど、名鉄でも4両編成くらいで輸送できていると言う感じなのでしょうか。
名古屋圏はやっぱり車社会なんでしょうか。
トヨタ自動車のお膝元であり、従って関連企業も含めて自動車関連の産業の集積地だから、車は確かな感覚で多い。
三菱自動車岡崎製作所があるから、三菱も強い。
三重だけれど、本田鈴鹿製作所があるから、ホンダ社の関連も強い。
そりゃ車中心に移動手段が考えられるんだろう。
そんなことに改めて気づきました。
福岡だとどうなんだろう。
でも印象としては、電車というよりバスの会社のような感じです。
西鉄バスって、福岡市内を埋め尽くすように走っています。
近年こそ、市営地下鉄が発達してきたのだと思いますが、それでもバスには及ばない。
あくまでも関西での印象と比べてですが。
東京はもちろん鉄道網がものすごい。
車の台数も半端ないのだろうけれど、鉄道無くして移動ができない感じを受けます。
東京に住んでいない者の感覚では、違う路線の違う駅でも意外に近かったりするのです。
それで、今なら地図ナビを使って調べて、路線でなく場所で判断すると言うことをしたりします。
たとえば練馬に行くにしても、いろいろ行き方はあるし、最寄駅にこだわらなければ複数の鉄道会社を使える。
関西で、大阪ー京都間を移動するときにしっかり調べないといけないことに、淀川の北なのか南なのか(阪急なのか京阪なのか)を判断間違いをするととんでもない。
阪急OR京阪で大阪から京都を移動すると(通して移動するなら別として)、沿線の都市名を間違うと全然違う、のに比べたら東京なんてそんなことはない、こともないのだろうけれど、複雑なだけではないのかと思えるのです。
人口も日本の1割が集中しているわけだから、ましてや横浜や千葉や埼玉に囲まれて繋がっているわけで、そりゃあ鉄道の編成自体もとんでもない超大編成になるんでしょう。
東京の夕方のラッシュ時に、新宿駅から上北沢に行きたくて、京王だっけ?に乗ったのですがとんでもなかった。
関西のラッシュの比ではない。
事故が起きているわけでもないのにホームで身動きが取れなかった記憶があります。
車を使わない者としては、東京・大阪の鉄道がいかに輸送力の中心なのか感じているところです。
名古屋圏に居住する今となっては、関西の鉄道の在り方というか、規模というか、地域への影響というか、そう言ったモノを感じさせずにはいられないのです。
初めて名鉄名古屋駅で普通列車を見た時には、「ここが名古屋のターミナル?」と感じました。
駅の規模としては関西なら近鉄大阪難波駅くらいなんでしょうか、でも近鉄といっても6両とか8両とかでしたから、同じ近鉄でも大阪のターミナル発着と名古屋のそれとは、こうも違うんですね。
日々いろいろありますが。
人は自分の都合でモノを言う生き物かも知れません。
だから思い通りにいかないことが起こると、時に相手側に責任があるような物言いをすることがある。
今日もそんなことがあって、別のブログに書いたのです。
思い通りにいかなくて、相手に責任があるような物言いをして、でも結局悪いのは自分だったりするし、時には相手が悪かったりする。
でも何故か自分が悪くないような物言いをしてしまう。
どっちでもいいけれど、自分にも責任があるかもな?くらいに思っていたら話し合いになる気がする。
今日の出来事でもそうだけれど、いきなりスケールがでかくなってなんなのですが、ロシアとウクライナの紛争にしても、イスラエルとハマスの紛争にしても、聞く耳持たない、相手側が悪いと一点張りだ。
本当にウクライナには何も非がないのか?
いや悪いと言っているわけではなく、聞く耳持った方がいい一面が見つけられないものだろうか。
ロシアは一方的に悪者か?
プーチンは独裁者?で、かの国はそれに従うしかないのか?
一般に言われることを疑うわけではないけれど、二ュースで聞くことが真実の全てか?
話が大きくなりすぎた。
そんなこと、自分の都合の良い物言いをすることの多い日常ですが、そんな時に気分を変えるために個人的にやっていることがあって、それはごく単純に2つあります。
1つは「深呼吸」。
カッカしているときは呼吸が浅くて早い。
だから意識して深呼吸をしてみるようにしています。
そうするだけで、カッカしていた自分を少し客観視して落ち着くのです。
2つめは「10秒待ってみる」。
実際には10秒も待ったら負け感が強くなるかも知れない。
でも少し間を保つようにはしています。
実際には2が先で1が後かな。
つまりことの最中には、あえて意識的に間を保って、おわったら深呼吸。
これだけで精神衛生を保てます。
とか偉そうに言っているけれど、実際にはうまくいくのは3割もないかも知れません。
「生きること」とはなかなかに難しい。
天気予報などの情報に振り回されたくないし、盲信的になりたくない、そんな想い。
今日は暖かかったのでしょうか。
よくわからなかった。
外に出なかったとかではないのです。
太陽の光を浴びた時には確かに暖かかった。
でもそれだけだった気がします。
何が言いたいかというと、天気予報の言葉にだけ従っていたら、何だか体感としてハズレる気がするのです。
朝から天気予報を見ていて、「今日は季節外れの暖かさ」なんて言っていて、これは昼間の外出はパーカーいらずだろうかと思っていたけれど、そんなことはなかった。
気温は確かに上がっていたんだろうけれど、寒かった?
家にいても寒いので、そんなに気温が上がった気もしない。
それで図書館に出かけて、読書をする。
そんなことで、元々テレビをしっかり見る方ではないけれどそれなりに見ていて得た情報に盲信的に従ったとしたら、多分何も考えずに長袖シャツで出かけたんじゃないか。
でも実際には体感で、パーカーを着込んで出かけた、それで正解だった。
学生時代に社会学を学び、情報に従う人間の心理や行動を考えていた。
当時は本当は産業社会学専攻の分野だったのだろうけれど、社会学専攻の学生でありながらマスコミュニケーション社会学専攻の教授について考えていたのでした。
今だったら当たり前に分野を横断して学ぶのだろうけれど、制度上そうなっていなかったのに自分の中では横断的に考えていた気がする。
そんな自分だったからこそ、いまだに天気予報情報に対しても、盲信的にならない感じです。
ステレオタイプに情報に従っていたら、着るものにさえ自分で勝手に考えなくなる(おしゃれをすることは別として、でもそれでさえ、天気予報で大まかにアウターを決めるわけでしょう)んじゃないか。
昨日のブログではないけれど、小さなことにやたらとこだわる。
だからこんな、どうでもいいことにこだわって考えたりするのでしょうか。
ほんとどーでもいい。
そうは思います。
でもやっぱり思うのは、情報に振り回されたくないし、情報に盲信的になりたくない。
今日感じたもやっとした感覚をちょっと紹介します。
今日の反省は、確認はちゃんとやろう、です。
ちょっと確認するだけで、その後の問題発生を防ぐことができたからです。
この、ちょっとだけ確認作業をすれば良かったのにしなかった、この一手間だけで起こり得なかった、たったそれだけで起きた問題、が一番気持ち悪いのです。
小さいことだけに、気が付けば良い、気づくだけで良い、それだけのことだからこそ、気持ち悪い。
これって、その時になんだか気付くことがあったのです。
「ん?これはアクションをすべきか?」みたいな、胸騒ぎとまでは行かないモヤっとした感覚、そしてそのモヤっと感が的中するんです。
致命的なミスだとか、そんなものではないので、当然取り返しはつくのですが、だからこそ気持ちがモヤッとする。
不思議なことですが、昔からこの、ちょっとしたミスの方が後を引く感覚があります。
何のことかわからないでしょうが、書くに足りないほどの、小さなこと、当然やってて当たり前なこと、ミスだと言って責められるほどでもないこと、なのだけれど、これをやっておかなかったからこそ起こったちょっとした行動の欠如、が、なぜだか一番気持ち悪い。
もちろん、責められるほどの大問題の方が大変なことだけに後を引くというのは、それはそれで嫌なものだけれど、それは他者に責められることも含めての不快感(反省・後悔)であって、自己の中でぐるぐる巡る不快感とは違う。
わかりにくいことを書いてしまいました。
事実を書けばいいのでしょうが、仕事上の秘密でも有り書けません。
が、感覚として、小さなミスで、こんなのちょっと気づいて行動を起こせば防げたこと、であって、そんなことに限って、後から思えばあの瞬間に何か違和感のようなモヤっと感があったことの方が、大きなミスよりもむしろ後味悪いということを感じたので、書いてみました。